ポポ社会学

ウムラウト教授のポカン論:第1講義 忙しいのに退屈

忙しいのに、退屈。

この矛盾した感覚を、抱えたことがある人は多いのではないでしょうか。

仕事はある。家事もある。家族の世話もある。予定もある。返信しなければならない連絡もある。時間は決して余っていない。むしろ、毎日それなりに埋まっている。

それなのに、ふとした瞬間に、心の中がぽっかり空く。

「暇」というほど時間があるわけではない。けれど、「充実している」と言い切るには、どこか薄い。

ここに、ポカンの入口があります。

人は、本当に退屈していなければ、動画サイトやSNSをあれほど見続けないのではないかと思います。

けれど、それは単純に「暇だから」ではありません。むしろ多くの人は忙しい。仕事や家庭、生活の維持に、かなりの時間を拘束されています。

つまり、忙しいことと退屈していることは、実は矛盾していないのです。

暇は、時間の空白です。

退屈は、内側の空白です。

時間は埋まっている。けれど、自分の中が満ちていない。その状態が、忙しいのに退屈、という感覚を生み出します。

もともとは、仕事も家庭も、自分が望んだ目的だったのかもしれません。

働きたい。認められたい。家庭を持ちたい。安定した生活を送りたい。誰かの役に立ちたい。

最初は、そこに意味があったはずです。

けれど、時間が経つうちに、目的だったものが「維持するもの」へと変わっていくことがあります。

仕事は生活のために続けるものになり、家庭は回さなければならないものになり、日々はこなすべき予定で埋まっていく。

もちろん、それらを簡単になかったことにはできません。

一度入った場所から降りることは、簡単ではない。仕事も、家庭も、人間関係も、責任も、ある日突然「やっぱりやめます」と置いていけるものではありません。

だから人は、しぶしぶ続ける。

壊れているわけではない。けれど、満ちているわけでもない。

その中で、つかの間の休息がやってきます。

でも、その休息の時間に、これといって向かうものがない。

そんなとき、動画やSNSはとても便利です。

何かを決めなくてもいい。深く考えなくてもいい。次々と流れてくるものを見ていれば、とりあえず空白は埋まります。

動画やSNSは、暇つぶしというより、退屈の紛らわしなのかもしれません。

それは悪いことではありません。

人はずっと濃く生きられるわけではないし、ずっと自分と向き合っていることもできません。ときには紛らわせる時間も必要です。

ただ、その紛らわしが続きすぎると、自分の中にあるポカンに気づきにくくなります。

麻酔は痛みを消します。

でも、傷そのものを治すわけではありません。

同じように、動画やSNSはポカンを一時的に消してくれるかもしれません。

けれど、自分の人生が濃くなるわけではありません。

忙しいのに退屈。

この感覚は、怠けでも贅沢でもありません。

それは、自分の内側が「このままでいいのか」と小さく問い始めている合図なのです。

ポカンは、いきなり大きな絶望としてやってくるとは限りません。

最初は、ほんの少しの薄さとして現れます。

毎日は回っている。生活も壊れていない。誰かに相談するほどの問題でもない。

けれど、どこか退屈。

その小さな違和感を、すぐに埋めてしまわないこと。

そこから、ポカン論は始まります。