忙しいのに、退屈。
この矛盾した感覚を、抱えたことがある人は多いのではないでしょうか。
仕事はある。家事もある。家族の世話もある。予定もある。返信しなければならない連絡もある。時間は決して余っていない。むしろ、毎日それなりに埋まっている。
それなのに、ふとした瞬間に、心の中がぽっかり空く。
「暇」というほど時間があるわけではない。けれど、「充実している」と言い切るには、どこか薄い。
ここに、ポカンの入口があります。
人は、本当に退屈していなければ、動画サイトやSNSをあれほど見続けないのではないかと思います。
けれど、それは単純に「暇だから」ではありません。むしろ多くの人は忙しい。仕事や家庭、生活の維持に、かなりの時間を拘束されています。
つまり、忙しいことと退屈していることは、実は矛盾していないのです。
暇は、時間の空白です。
退屈は、内側の空白です。
時間は埋まっている。けれど、自分の中が満ちていない。その状態が、忙しいのに退屈、という感覚を生み出します。
もともとは、仕事も家庭も、自分が望んだ目的だったのかもしれません。
働きたい。認められたい。家庭を持ちたい。安定した生活を送りたい。誰かの役に立ちたい。
最初は、そこに意味があったはずです。
けれど、時間が経つうちに、目的だったものが「維持するもの」へと変わっていくことがあります。
仕事は生活のために続けるものになり、家庭は回さなければならないものになり、日々はこなすべき予定で埋まっていく。
もちろん、それらを簡単になかったことにはできません。
一度入った場所から降りることは、簡単ではない。仕事も、家庭も、人間関係も、責任も、ある日突然「やっぱりやめます」と置いていけるものではありません。
だから人は、しぶしぶ続ける。
壊れているわけではない。けれど、満ちているわけでもない。
その中で、つかの間の休息がやってきます。
でも、その休息の時間に、これといって向かうものがない。
そんなとき、動画やSNSはとても便利です。
何かを決めなくてもいい。深く考えなくてもいい。次々と流れてくるものを見ていれば、とりあえず空白は埋まります。
動画やSNSは、暇つぶしというより、退屈の紛らわしなのかもしれません。
それは悪いことではありません。
人はずっと濃く生きられるわけではないし、ずっと自分と向き合っていることもできません。ときには紛らわせる時間も必要です。
ただ、その紛らわしが続きすぎると、自分の中にあるポカンに気づきにくくなります。
麻酔は痛みを消します。
でも、傷そのものを治すわけではありません。
同じように、動画やSNSはポカンを一時的に消してくれるかもしれません。
けれど、自分の人生が濃くなるわけではありません。
忙しいのに退屈。
この感覚は、怠けでも贅沢でもありません。
それは、自分の内側が「このままでいいのか」と小さく問い始めている合図なのです。
ポカンは、いきなり大きな絶望としてやってくるとは限りません。
最初は、ほんの少しの薄さとして現れます。
毎日は回っている。生活も壊れていない。誰かに相談するほどの問題でもない。
けれど、どこか退屈。
その小さな違和感を、すぐに埋めてしまわないこと。
そこから、ポカン論は始まります。