ポポ社会学

気を遣いすぎる人は、世界を受信しすぎている

「気を遣いすぎる」と言われる人がいる。

もっと気楽にすればいい。考えすぎだ。気にしすぎだ。そんなふうに言われることもある。

だが、本当にそうなのだろうか。

イナン教授は、眼鏡の奥で静かに目を細めた。

「それは、性格の問題ではなく、受信量の問題かもしれません」

気を遣いすぎる人は、必ずしも「気を遣おう」としているわけではない。

見えてしまう。聞こえてしまう。感じてしまう。

表情のわずかな変化。声色の曇り。沈黙の重さ。視線の動き。場の温度。

他の人が流しているものを、なぜか拾ってしまう。

それは、心が弱いからではない。

世界の解像度が、少し高すぎるのだ。

空気を拾いすぎる脳

人と話しているとき、言葉だけを聞いている人は意外と少ない。

人は同時に、表情を見ている。声の調子を聞いている。間を読んでいる。相手の疲れや機嫌や、ほんの小さな違和感を感じ取っている。

ただ、その受信量には個人差がある。

ある人は、相手が笑っていれば「楽しそうだ」と思う。

しかし、気を遣いすぎる人は、その笑顔の奥にある微妙な硬さまで拾ってしまう。

「今、ちょっと無理して笑ったな」

「声のトーンが一瞬落ちたな」

「この沈黙、さっきと意味が違うな」

そんなものまで見えてしまう。

これは、ある意味では能力である。

だが、日常生活においては、かなり疲れる能力でもある。

優しい人ではなく、感度が高い人

気を遣いすぎる人は、よく「優しい人」と言われる。

もちろん、優しさもあるだろう。

けれど、それだけでは説明しきれない。

本人の中では、優しくしようとしている以前に、まず情報が入ってきている。

音が大きい。光が強い。人混みがしんどい。声の圧が重い。誰かの機嫌が部屋全体に広がっているように感じる。

そういう人にとって、世界はいつも少し騒がしい。

だから疲れる。

人間関係で疲れているように見えて、実は情報量で疲れていることもある。

「優しいのではありません。受信機の感度が高いのです」

イナン教授は、そう言って黒板に小さく「受信」と書いた。

人といるだけで疲れる理由

「楽しかったけれど、疲れた」

この感覚を持つ人は多い。

嫌な時間だったわけではない。むしろ楽しかった。会話も弾んだ。笑った。いい時間だった。

それなのに、帰宅した瞬間、身体がどっと重くなる。

それは、その場でずっと処理をしていたからかもしれない。

相手の言葉を聞く。表情を見る。場の空気を読む。返事を考える。失礼にならない言い方を選ぶ。誰かが置いていかれていないか見る。

一見、ただ会話しているだけに見えて、脳内ではかなりのマルチタスクが走っている。

これでは疲れて当然である。

気を遣いすぎる人は、会話そのものではなく、会話に付随する大量の情報処理で疲れているのだ。

鈍感になる必要はあるのか

では、鈍感になればいいのだろうか。

イナン教授は、少し考えて首を振った。

鈍感さは、たしかに楽である。

気づかない人は、気づかないまま歩いていける。傷つく回数も少ない。余計な空気を拾わずに済む。

しかし、感度の高さは欠陥ではない。

それは、創作にも、言葉にも、表現にも、人の痛みに気づく力にもつながっている。

感じる力をすべて消してしまえば、たしかに楽になるかもしれない。

だが同時に、その人にしか見えていなかった景色まで失われる。

必要なのは、鈍感になることではない。

感度を切り替えることだ。

オフスイッチを忍ばせる

気を遣いすぎる人に必要なのは、世界を完全に遮断することではない。

小さなオフスイッチを忍ばせることだ。

全部を受信しない。

拾っても、持ち帰らない。

感じても、自分の責任にしない。

相手の不機嫌を、自分の宿題にしない。

場の空気が重くても、自分ひとりで換気しようとしない。

「今日はここまで受信」

そう決める感覚が必要である。

世界は、常に何かを発している。

だが、そのすべてに応答しなくていい。

「感度を捨てるのではありません。音量を下げるのです」

優しい人は、音量が大きい

気を遣いすぎる人は、世界の音量が他の人より大きく聞こえているのかもしれない。

誰かのため息。曖昧な返事。部屋の空気。沈黙の圧。

そうしたものが、少し大きめに届く。

だから疲れる。

けれど、その音量でしか聞こえないものもある。

誰かの小さな寂しさ。言葉にならない不安。表に出ない優しさ。場の奥にある、かすかな変化。

それに気づける人がいるから、救われる場面もある。

ただし、救うことと、背負うことは違う。

気づいたものを、全部抱えなくていい。

見えたからといって、すべて自分が処理しなくていい。

高画質で世界を見ている人ほど、ときどき画面の明るさを下げた方がいい。

世界を受信しすぎる人々へ

気を遣いすぎることは、単なる弱さではない。

それは、世界を受信しすぎている状態なのかもしれない。

感度が高い。情報を拾いやすい。空気の変化に気づきやすい。

だから、疲れる。

けれど、その感度を捨てなくていい。

ただ、常に全開でいる必要はない。

世界は鳴っている。

人も鳴っている。

空気も、沈黙も、視線も、声も、たくさんの信号を発している。

そのすべてを拾わなくていい。

必要なものだけ受け取り、不要なものはそっと流す。

それは冷たさではない。

自分を守るための知恵である。

イナン教授は、最後にチョークを置いて、こう言った。

「繊細なのではない。常時、高画質なのである」

言いすぎである。

しかし、少しわかる。

高画質で世界を見ている人には、ときどき低画質モードも必要なのだ。