B級グルメ文明論

ウムラウト教授のグルメ論──老舗編

老舗というものは、不思議である。

人は老舗に対して、「ここでしか味わえない特別な味」を求める。けれど同時に、「変わっていないこと」にも深く安心している。

変わってほしいのか。変わらないでほしいのか。

人間の胃袋とは、実にわがままである。

たとえば、八ツ橋である。

京都には、数多くの八ツ橋の店がある。暖簾があり、歴史があり、屋号があり、それぞれに誇りがある。

だが、食べる側は、ときどきこう思ってしまう。

「……どれも、だいたい八ツ橋やな」

失礼な話である。

しかし同時に、これは八ツ橋のすごさでもある。

大きく外れない。奇をてらわない。食べた瞬間に、「ああ、八ツ橋だ」とわかる。

それは退屈なのではない。

文化として、すでに輪郭が完成しているのである。

特に焼き八ツ橋は、非常にシンプルだ。薄い。軽い。カリッとしている。甘さはあるが、口の中にいつまでも居座らない。

ニッキの香りがふわっと立ち、噛むとカリッと割れ、最後はすっと消えていく。

派手ではない。

だが、他のお菓子では代わりにならない。

クッキーではない。煎餅でもない。シナモン菓子と言い切るには、どこか和の湿度がある。

あの薄さで、あの香りで、あの軽さで、そして食べ終わったあとに、ほんの少しだけ余韻が戻ってくる。

八ツ橋は、薄いのに、じわる。

この「じわる」というところが重要である。

世の中には、最初の一口で勝負を決めにくる菓子がある。濃厚で、甘くて、油脂が強くて、「どうだ」と迫ってくる。

それはそれで魅力がある。

しかし、八ツ橋は違う。

前に出すぎない。だが、消えない。

口の中ではさっぱり消えるのに、記憶には残る。

これは、なかなか高度な芸である。

老舗の味とは、強烈な個性を足し続けることではないのかもしれない。

むしろ、余計なものを足さずに、「これでいい」と言える形を守り続けることなのだ。

もし焼き八ツ橋が突然、ガーリック明太ペペロン味になったらどうだろう。

話題にはなるかもしれない。

だが、食べた人はたぶん、こう思う。

「それはそれでおもしろいけど、普通のやつもください」

老舗とは、冒険を拒む場所ではない。

ただし、帰る場所を失ってはいけないのだ。

八ツ橋のよさは、そこにある。

大げさではない。重くない。脂っぽくない。けれど、ちゃんと満足感がある。

食べたあとに胃袋が勝利宣言をしない。

静かに、ポリッと終わる。

しかし、しばらくすると、また一枚ほしくなる。

この静かな引力こそ、老舗菓子の力である。

生八ツ橋にもまた、別の魅力がある。

特に、あんこの入っていない皮だけの生八ツ橋。

あれは、実に潔い。

あんこが入ると、途端に「和菓子です」という顔になる。もちろんそれもよい。

だが、皮だけの生八ツ橋には、もっと軽やかな魅力がある。

餅のやわらかさ。ニッキの香り。ほんのりした甘さ。

まるで「香りをまとった餅」である。

主張しすぎない。だが、普通の餅ではない。

このあたりに、八ツ橋という菓子の奥深さがある。

焼けば、カリッと香る。

生なら、もっちり香る。

どちらも、結局はニッキの香りをどう食べるか、という菓子なのかもしれない。

ウムラウト教授は、ここで静かにコーヒーを飲んだ。

そして、皿の上に残った焼き八ツ橋を一枚手に取り、こう言った。

「これは、味というより、余韻の建築である」

言いすぎである。

しかし、少しわかる。

八ツ橋は、派手な菓子ではない。

けれど、何十年、何百年と人が買い続けるには、理由がある。

シンプルであること。

軽いこと。

そして、他にないこと。

老舗の味とは、目新しさで人を驚かせる味ではない。

「ああ、これこれ」と思わせる味である。

変わらないことが、退屈ではなく、信頼になる。

八ツ橋は、そのことをポリッと教えてくれる。

そして今日も、誰かが言う。

「もう一枚だけ」

その一枚が、老舗を続かせている。