「人それぞれですからね」で思考停止する人たち
──理解者ポーズという便利な立ち位置
多様性という言葉が広がってから、人は以前よりも衝突を避けるようになった。
議論になりそうな場面で、こう言う人がいる。
「まあ、人それぞれですからね。」
この言葉は一見、とても寛容に聞こえる。器の大きい態度にも見える。しかしよく観察すると、この言葉はしばしば議論を終わらせるために使われる。
違いを理解するためではなく、これ以上関わらないための言葉として。
多様性とは本来、違いを観察することから始まる。しかし「人それぞれ」という一言で話を終わらせてしまうと、その観察は行われない。
理解の言葉のように見えて、実は思考停止の合図になることがあるのである。
第一章 理解者ポジション
現代社会には、便利な立ち位置がある。
それは「理解者」のポジションである。
どちらの側にも立たず、争いにも参加せず、しかし寛容な態度だけは示す。
「そういう考え方もありますよね。」
「まあ、人それぞれですからね。」
この立場は、とても安全である。誰とも衝突しない。誰からも攻撃されにくい。
しかし同時に、この態度には一つの特徴がある。
それは、観察が止まることである。
本来なら、人の意見が違うときこそ、興味深いはずである。なぜそう考えるのか。どんな経験があるのか。何を守ろうとしているのか。
しかし「人それぞれ」で話を終わらせてしまえば、その先は何も見えなくなる。
第二章 共感の言葉
人の話を聞いていると、すぐにこう言う人がいる。
「わかります。」
この言葉もまた、やさしい言葉に聞こえる。しかしときどき、不思議な場面に出会う。
本当に理解しているとは思えないほど早く、「わかります」が出てくるのである。
人の経験はそれぞれ違う。背景も違う。だから本来、理解には時間がかかる。
それでも「わかります」がすぐに出てくるのは、その言葉が理解を示すためではなく、共感している自分を示すために使われているからかもしれない。
共感の言葉はとても便利である。しかしそれが早すぎるとき、人は少しだけ疑問を感じる。
本当に聞いているのだろうか、と。
第三章 器の大きい人
人はときどき、自分を器の大きい人間として見せたくなる。
「いろんな人がいますからね。」
この言葉もまた、寛容の表現としてよく使われる。
しかし人間の本当の姿を観察すると、少し違う風景が見えてくる。
人は案外、好き嫌いが多い。嫉妬もする。苦手な人もいる。理解できない考え方もある。
つまり、人間の器はそれほど大きくない。
むしろ、人間の器はだいたい小さい。
しかしそれは、悪いことではない。人間が人間であるというだけの話である。
第四章 理解しても仲間になる必要はない
多様性の議論で、ときどき奇妙な期待が生まれることがある。
それは「理解したのなら、あなたもこちら側ですよね」という期待である。
しかしこれは少し違う。
理解とは、同じ立場に立つことではない。
理解とは、相手がどこに価値を置いているのかを知ることである。
理解したうえで距離を保つことも、人間関係の一つの形である。
むしろ社会が安定するためには、この態度はとても重要になる。
なぜなら、人の価値観は必ずしも一致しないからである。
第五章 それでも社会は回る
人間の器は小さい。
嫉妬もする。誤解もする。好き嫌いもある。
それでも社会が成り立っているのは、人間が完璧だからではない。
制度があるからである。
制度は、人間の小さな器を前提に作られている。人間が聖人であることを前提にはしていない。
だから社会は、人間の弱さを抱えたまま回っている。
人間の器が小さいからこそ、制度が必要になるのである。
講義の終わりに、イナン教授は黒板に一行だけ書いた。
「人間の器は、だいたい小さい。」
そして少しだけ笑ってから、こう付け加えた。
「だから制度がある。」