考えることと、礼儀は別である
──思考の自由と場の作法
人はときどき、二つのことを混同する。
それは、考えることと、振る舞うことである。
頭の中では、いろいろな疑問が浮かぶ。制度について、伝統について、本当に必要なのかと考えることもある。それは自然なことであり、思考の自由でもある。
しかしその思考を、どこでどう表現するかは、また別の問題である。
社会には、礼儀というものがある。
礼儀とは、考えることを禁止するものではない。ただ、場を壊さないための作法である。
第一章 疑問を持つ自由
どんな制度も、絶対ではない。
伝統も同じである。長く続いているからといって、すべての人が無条件に納得するとは限らない。
疑問を持つことは、人間の自然な思考である。
社会が健全であるためには、その疑問が完全に禁止されていないことも重要である。
第二章 制度と人
しかし制度について考えることと、目の前の人を尊重することは別である。
制度には疑問を持つことができる。しかし、その制度の中で一生懸命に生きている人を軽んじる理由にはならない。
人は制度とは別の存在である。
第三章 お茶の時間
たとえば、お茶を立ててくれている人がいるとする。
そのときに、「早く飲みたい」と言う人はあまりいない。
お茶を立てる時間も、その場の空気も、すべて含めて一つの時間だからである。
お茶の制度について議論することはできる。しかし、お茶を立てている人の前でその話をする必要はない。
それは礼儀の問題である。
第四章 場を壊す言葉
人はときどき、「本当のことを言っただけだ」と言う。
しかし本当のことと、場にふさわしい言葉は必ずしも同じではない。
社会には多くの場がある。家族の場、仕事の場、儀礼の場。
それぞれの場には、それぞれの作法がある。
礼儀とは、その作法を守ることである。
第五章 礼儀という装置
礼儀は、人の思考を縛るためのものではない。
むしろ逆である。
人が自由に考えながらも、社会が壊れないようにするための装置である。
思考が完全に禁止される社会は危うい。
しかし礼儀が完全に失われた社会も、また不安定になる。
人間社会は、その二つのあいだで静かにバランスを取っているのである。
講義の終わりに、イナン教授は黒板に一行だけ書いた。
「思考は自由である。」
そして少し間を置いて、もう一行を書き足した。
「しかし礼儀は社会である。」