ポカンのすき間には、いろいろなものが入り込んできます。
その代表が、スマホに流れてくる「おすすめ」です。
頼んでもいないのに、なぜか出てくる。
「今これが人気です」
「あなたにおすすめです」
「これを買った人は、こちらも見ています」
「今、これを始める人が増えています」
こちらが求めたわけでもないのに、画面の向こうから、次々に何かが差し出されます。
もちろん、おすすめそのものが悪いわけではありません。
便利なこともあります。知らなかったものに出会えることもあります。自分では探せなかった情報にたどり着けることもあります。
けれど、問題はそこではありません。
問題は、それが入ってくるタイミングです。
人は、はっきりした目的を持っているときには、ある程度、情報を選べます。
仕事の会議中に流れてくる情報と、夜にぼんやりスマホを眺めているときに流れてくる情報では、こちらの受け取り方がまったく違います。
会議中なら、「これは必要」「これは今はいらない」と切り分けられるかもしれません。
けれど、疲れているとき。ぼんやりしているとき。第1講義で触れたような、忙しいのに退屈な状態にいるとき。
そのときの判断力は、いつもより一段も二段も下がっています。
そこに、スーッと入ってくる。
「これがいいですよ」
「今、これが旬ですよ」
「みんな、これを選んでいますよ」
そう言われると、つい見てしまう。
つい気になってしまう。
つい、自分に必要なもののように思えてしまう。
これが、思考の外注の始まりです。
自分で考える前に、外側から答えが差し出される。
自分で選ぶ前に、「これがいい」と言われる。
自分の中で問いが立ち上がる前に、すでに選択肢が並べられている。
そして人は、その中から選んだだけで、自分で考えたような気持ちになります。
ここが、少し怖いところです。
本当は、自分の内側にあるポカンと向き合う時間だったのかもしれない。
けれど、そのすき間におすすめが入り込むことで、ポカンは一時的に埋まります。
何かを見た。何かを調べた。何かを買った。何かを始めようと思った。
すると、少しだけ動いたような気がします。
けれど、それは本当に自分の動きだったのでしょうか。
それとも、外側から流れてきたものに反応しただけだったのでしょうか。
ここで大事なのは、すぐに拒絶することではありません。
「おすすめなんか見るな」と言いたいわけでもありません。
ただ、一拍置くことです。
画面に何かが流れてきたとき、心の中でこう言ってみる。
「……来たな」
この一拍が、思考を自分の側に取り戻すための小さな間になります。
「今これがいい」と言われた。
本当にそうなのか。
「今これが旬」と言われた。
誰にとって旬なのか。
「みんなが選んでいる」と言われた。
その“みんな”とは誰なのか。
そして、もうひとつ考えてみる。
それを言う人のメリットは、どこにあるのか。
何かをすすめる人には、多かれ少なかれ理由があります。
売りたい。見てほしい。登録してほしい。広めてほしい。影響力を持ちたい。
もちろん、それが悪いという話ではありません。
誰かが何かをすすめるとき、そこには必ず何らかの構造があります。
その構造を見ずに、ただ「おすすめされたから」と受け取ると、自分にとって本当に必要ではないものに、大事なお金と時間を吸われてしまいます。
思考の外注とは、自分で考えることを完全にやめることではありません。
もっと静かに、もっと自然に起きます。
少し疲れているとき。
少し退屈しているとき。
少し不安なとき。
少し自分の位置がわからなくなっているとき。
そのすき間に、外側の声が入ってくる。
「これでいいですよ」
「こっちに行けば安心ですよ」
「あなたにはこれが合っていますよ」
そう言われると、考える面倒を預けたくなります。
けれど、ポカン論では、その瞬間を見逃しません。
考えることは、たしかに面倒です。
判断することも、選ぶことも、時にはしんどい。
でも、その面倒をすべて外に預けてしまうと、自分の人生の味は少しずつ薄まっていきます。
自分に必要なものと、ただ流れてきただけのもの。
自分が本当に望んでいるものと、望まされているもの。
その違いを見分けるためには、一拍置くしかありません。
「……来たな」
その一拍の中に、自分の思考を取り戻す入口があります。
おすすめをすべて疑え、という話ではありません。
ただ、差し出されたものを、そのまま自分の答えにしないこと。
外側の声を聞いてもいい。
でも、最後に自分の中へ戻すこと。
思考の外注から抜け出すとは、外の情報を拒絶することではありません。
外から来たものを、一度、自分の中で受け止め直すことです。
ポカンのすき間に入り込んできたものに、すぐ席を譲らないこと。
その小さな抵抗が、濃い人生の入口になります。