人はなぜ、「わかっているように振る舞う」のか。
その起点のひとつが、子どもの頃の感想文にある。
「自由に書いていい」と言われながら、
そこには暗黙の“正解ルート”が存在する。
「命の大切さに気づきました」
「人を思いやることが大切だとわかりました」
「感謝する気持ちを持とうと思いました」
こうした言葉は、安全であり、評価されやすい。
一方で、
「この話は苦手でした」
「登場人物に共感できませんでした」
といった率直な感想は、
しばしば“少しズレたもの”として扱われる。
ここで子どもは学習する。
正直であることよりも、
“正しく見えること”の方が評価されるという事実を。
このとき装備されるのが、
いわば“わかってる風”という振る舞いである。
それは最初、小さな適応でしかない。
しかし繰り返されるうちに、
それは判断の基準となり、
やがて“思考の型”へと変わっていく。
問題はここからである。
この型が定着すると、
人は他者の言葉や作品に対しても、
“正しい理解”を探すようになる。
つまり、感じる前に、整える。
違和感を抱く前に、納得した形に収める。
その結果、
本来なら引っかかるはずのものが、
通り過ぎてしまう。
“わかっている”ことが、
“感じない”ことにつながるのである。
これは能力の問題ではない。
構造の問題である。
そしてこの構造は、
善意と教育の名のもとに、
静かに育てられていく。