お祭りは、不思議だ。
本来の意味は、たぶんちゃんとある。
豊作とか、繁栄とか、祈りとか。
昔から続いてきた理由も、きっとそこにあるのだと思う。
でも、子どもの頃の自分にとっては、そんなことはどうでもよかった。
ただ、ものすごく特別だった。
夜に人が集まって、
光がぶら下がって、
音が鳴って、
いつもの町が、いつもの町じゃなくなる。
あの非日常が好きだった。
少しだけ普通じゃない時間
大人になってから思う。
あの空間は、少しだけ“普通じゃない状態”だったのかもしれない。
音も、光も、人の熱も、どこか過剰で、
みんな、ほんの少しだけ外れていた。
火が燃えていて、
人が密集していて、
冷静に見れば、危うさもある。
実際、祭りでは事故も起きる。
死者が出ることだってある。
それでも、祭りは続いている。
伝統を守るという義務感だけでは、たぶん説明がつかない。
そこには、もっと別のものがある。
境界がゆるむ日
昔は、祭りの日だけ少し許されることもあったらしい。
異性と話すこと。
いつもより浮き立つこと。
日常ではできないこと。
境界が、ゆるむ日。
そういう日が、昔から人間には必要だったのかもしれない。
祭りに魂を注いでいる人を見ると、ときどき思う。
あれは趣味でも行事でもなく、もう自分そのものなんやろうなと。
祭りを取り上げられたら、耐え難い人がたくさんいる気がする。
なくても生きていけるのに
行為としては、必要不可欠ではないのかもしれない。
山車を引いたり、
りんご飴を食べたり、
浴衣を着たり、
それがなくても、生きてはいける。
毎日の生活に必要なものではない。
合理的に考えたら、なくても困らないものばかりだ。
でも、取り上げてしまったら、
きっとどこかが壊れる。
人間には、そういうものがある。
合理的でないものを大事にしてしまう
人間って、合理的でないものも大事にしてしまうところがある。
切った爪とか、摘出した石とか、乳歯とか。
本来なら捨ててもいいはずのものを、なぜか捨てられなかったりする。
意味があるのかと聞かれたら、うまく答えられない。
でも、そういう“意味のないもの”の中に、
どこか自分の一部のような感覚が宿ることがある。
祭りも、少し似ているのかもしれない。
合理性では説明しきれない。
でも、確かに人間にくっついている。
帰り道
祭りの帰り道は、やけに静かだった。
さっきまでの音も、光も、
嘘みたいに消えていた。
手の中に残っているのは、
少しの熱と、わずかな名残だけだった。
あんなに騒がしかったのに、
終わったあとだけが妙にはっきり残る。
たまに解放されないと、
人間はやってられないのかもしれない。