文学思想講座

誤解されることを引き受ける──伝わらなさの中で立つということ

伝わることは、望ましいことだとされる。

意図が正しく理解され、誤解されず、同じように受け取られること。それは安心をもたらす。

だが、現実には、どれだけ言葉を尽くしても、完全に伝わることはない。

むしろ、伝えようとすればするほど、別の形で受け取られていく。

人はそれぞれ、違う前提と経験の中で言葉を受け取るからだ。

そのズレは、避けることができない。

だからこそ、人は誤解を恐れる。

できるだけ誤解されないように、言葉を整え、説明を重ね、誤読の余地を減らそうとする。

だが、その過程で、言葉は少しずつ平らになっていく。

角が取られ、曖昧さが削られ、誰にも引っかからない形に近づいていく。

その結果、誤解は減るかもしれない。

だが同時に、何も残らなくなる可能性もある。

では、どうすればいいのか。

誤解されないことを目指すのではなく、誤解される可能性を含んだまま立つこと。

すべてが正しく伝わることを前提にしないこと。

そのうえで、それでもなお残したいものを残すこと。

誤解は失敗ではない。

それは、他者とのあいだに生まれるズレであり、同時に接点でもある。

そこから何かが始まることもある。

伝わらなさの中で、それでも言葉を置く。

受け取られ方が自分の手を離れていくことを認める。

そのとき、はじめて表現は、コントロールの外側に出ていく。

誤解されることを恐れずに立つこと。

それは、伝わること以上に、強い選択である。