文学思想講座

わかってくれる「一人」を探して──大衆と共鳴のあいだで

多くの人に伝わることは、良いことだとされる。

広く理解され、共感され、評価される。それは確かに一つの到達点である。

だが、その広がりの中で、何かが薄まっていく感覚もある。

誰にでもわかるように整えた言葉は、同時に、誰かにだけ届くはずだったものを削り取ってしまう。

すべての人に届くものは、すべての人にとって安全な形に変えられている。

そこには強い拒絶もなければ、強い引力もない。

ただ、通り過ぎていく。

では、何を目指せばいいのか。

大勢ではなく、たった一人。

どこかにいるかもしれない、その一人に届くこと。

そのためには、削らないことが必要になる。

整えすぎないこと。説明しすぎないこと。わかりやすくしすぎないこと。

むしろ、引っかかりを残すこと。

違和感のまま置くこと。

誰かが通り過ぎるかもしれないその場所に、確かに残しておくこと。

すべての人に伝わる必要はない。

だが、誰にも届かないものにも意味はない。

そのあいだで揺れ続けるしかない。

わかってくれる一人は、最初から存在しているわけではない。

出会いの中で、偶然のように生まれる。

だからこそ、削らずに置いておく。

見つかるかどうかはわからないまま、それでも残す。

それが、表現という行為のひとつの形である。