「しょうがない」という言葉は、よく“諦めの言葉”だと思われている。
たしかに、何かが思い通りにならなかったときに使われることが多い。
しかし日本語の「しょうがない」は、ただ投げ出しているわけではない。むしろ、現実と正面衝突せずに生き延びるための、かなり高度な処世術である。
英語では it can’t be helped と訳されることが多い。意味としては近い。
けれど、日本語の「しょうがない」には、もう少し生活の温度がある。
ただ冷たく断念するのではなく、少し残念に思いながらも、そこで暴れず、現実の中に自分を着地させる。
その着地の仕方まで含めて、「しょうがない」なのである。
つまり「しょうがない」は、諦めではなく、現実との共存技法である。
たとえば、急な雨で予定が狂ったとする。
文句を言っても晴れるわけではない。そこで「しょうがない」と言う。
このとき人は、世界に負けたわけではない。ただ、いったん自然の側に席を譲っているだけである。
悔しい気持ちはあるが、その悔しさを長時間こねくり回さず、次の行動へ移るための切り替えスイッチとして、この言葉が働いている。
また、人間関係でも「しょうがない」はよく使われる。
相手に期待していた反応が返ってこなかった。こちらの気持ちが十分に伝わらなかった。
そういうときに「まあ、しょうがないか」と口にする。
この言葉は、自分の中に生まれた小さな怒りや失望を、社会の中で扱える大きさまで調整する役割を持っている。
つまり「しょうがない」は、感情を消す言葉ではない。感情を暴走させない言葉なのである。
日本語には、白黒をはっきりつけずに、その中間で生きるための言葉が多い。
「気まずい」もそうだし、「空気」もそうだし、「遠慮」もそうだ。「しょうがない」もその仲間である。
完璧に納得したわけではない。かといって、全面的に反抗するわけでもない。
その中間で、少し肩を落としながら立ち続ける。その姿勢にぴったりの言葉が「しょうがない」なのである。
この言葉には、ある種の知恵がある。
世の中には、自分の努力ではどうにもならないことが山ほどある。天気、時代、人の気分、すれ違い、タイミング。
そうしたものに対して、毎回本気で怒っていたら、人はすぐに消耗してしまう。
だからこそ、日本語は「しょうがない」という言葉を育てたのかもしれない。
ただし、この言葉は便利すぎるぶん、少し危うさもある。
本当は変えられることまで「しょうがない」で済ませてしまうと、思考は止まる。
声を上げた方がいい場面でまで飲み込んでしまうと、それは知恵ではなく我慢になる。
つまり「しょうがない」は、使い方を間違えると、心の中に小さな諦めを積もらせる装置にもなる。
このあたりが、日本語の面白くてこわいところである。
やさしい顔をした言葉ほど、ときどき深いものを背負っている。「しょうがない」もまた、穏やかな表情の奥に、受容、忍耐、調整、そして少しの疲れを隠している。
とはいえ、この言葉が多くの人を助けてきたのも事実である。
人生は、理屈どおりに回らない。努力が報われない日もあるし、理不尽が顔を出す日もある。
そんなときに「しょうがない」とつぶやくことは、敗北宣言ではなく、心が壊れないための応急処置でもある。
日本人は昔から、自然災害や社会の変化、どうにもならない現実の中を生きてきた。
その中で、世界を完全に支配しようとするのではなく、折り合いをつけながら暮らす感覚が育った。
その感覚のひとつの到達点が、「しょうがない」という言葉なのかもしれない。
もしこの言葉を一言で表すなら、「納得していないまま、生きていくための知恵」である。
完全な肯定ではない。美しい前向きでもない。
けれど、現実を受け止めながら、次へ進むためにはとても実用的である。
そう考えると、「しょうがない」は消極的な言葉ではなく、かなり生活力の高い言葉だと言える。
しょうがないとは何か。それは、どうにもならない現実の前で立ち尽くすのではなく、少しだけ肩の力を抜いて、世界と折り合うための日本語である。
そしてたぶんこの国の人は、前向きに突き進む言葉よりも、こういう“静かに立て直す言葉”をずっと信じてきた。
派手さはないが、かなりしぶとい。そういうところが、いかにも日本語らしいのである。