無意味芸術論

なぜスーパーの音楽は安っぽいのか

スーパーに入ると、ある種の音が流れている。

軽い。
単純だ。
どこか安っぽい。

なぜ、もっと良い音楽を使わないのか。
なぜ、フルオーケストラのような豊かな音を排除するのか。

この問いは、「音楽の質」を前提にしている。

だが、スーパーにおいて重要なのは音楽の質ではない。

役割である。

スーパーとは、生活の場である。

人はそこで、値段を見比べ、
鮮度を確かめ、
今日の献立を即興で組み立てる。

そこに求められるのは、集中であって没入ではない。

もしここで、壮大な音楽が流れたとしよう。

空間は一瞬で舞台になる。
牛乳を選ぶ行為が、意味を帯びてしまう。

人は、日常に演出を求めていない。

むしろその逆である。

誰にも見られず、
何者にもならず、
ただ生活者として存在したい。

ここで音は、重要な役割を持つ。

音は、個をぼかす。

無音の空間では、
足音やカゴの音が浮き上がり、
人は自分の存在を意識せざるを得なくなる。

それは、わずかな気まずさを生む。

音は、その気まずさを覆い隠すためにある。

では、なぜあのような音なのか。

答えは単純である。

主張してはならないからだ。

良い音楽は、意識を奪う。
人を引き込み、空間の主役になってしまう。

スーパーにおいて主役は、商品であり、行為である。

音が主役になった瞬間、役割は崩れる。

したがって、音はあえて弱くされる。

記憶に残りすぎず、
しかし完全には消えない。

そこにあるのは、「音楽」ではない。

環境である。

人を動かし、
人を安心させ、
人を紛れさせるための設計である。

価値ある音楽が使われないのではない。

価値ある音楽であってはならないのである。