文学とは、物語ではない。
自意識の運動である。
ある者は吠え、
ある者は沈み、
ある者は自らを肯定し、
ある者は責め続ける。
それらはすべて、作品の中に残る。
文豪とは、特別な人間ではない。
誰もが持っているものを、隠さずに出した人間である。
そこで本講義では、文豪たちの自意識を一つの図として捉える。
文豪たちの自意識を、吠え度と自責度の高低で整理した「自意識マトリクス」。
縦軸に「吠え」を置く。
横軸に「自責」を置く。
吠えとは、世界への違和感である。
自責とは、その違和感を自分の内側に引き取る力である。
この二つの軸によって、人間の思考は大きく四つに分かれる。
吠えが強く、自責も強い者は、内側で燃え続ける。
吠えが強く、自責が弱い者は、外に向かって爆発する。
吠えが弱く、自責が強い者は、静かに内省する。
吠えも自責も弱い者は、流れの中に留まる。
ここに文豪たちを配置すると、その輪郭は明確になる。
ニーチェは、世界そのものに挑みかかる。
その吠えは最大であり、自らの正しさを疑わない。
太宰は、世界に対する違和感を抱えながら、
そのすべてを自分へと向ける。
芥川は、冷静な視線を保ちながら、
その奥で葛藤を抱え続ける。
ヘッセは、吠えるというよりも、
魂の内部を旅しながら問い続ける。
中島義道は、静かに怒り続ける。
だがその怒りは、自己の優位を示すものではない。
むしろ、なぜ自分だけがこの違和感を持つのかという、
問いの反復である。
ここで重要なのは、文体の巧拙ではない。
確かに、文章そのものが美しい者もいる。
だが、すべての文豪が名文家であるわけではない。
それでもなお、彼らが残る理由は明確である。
自意識が、むき出しだからである。
人は通常、自分の内側を隠す。
矛盾を整え、弱さを覆い、社会に適応する。
しかし文豪は、それをしない。
あるいは、できなかった。
その結果として残ったものが、作品である。
したがって文学とは、技巧の集積ではない。
自意識の痕跡である。
そして読む者は、その痕跡の中に、
自分自身を見つけてしまう。
それゆえに、文学は終わらない。