無意味芸術論

ウムラウト教授の芸術論|作為の透明度について

芸術において、「作為」はしばしば嫌われる。

あざとい。
狙っている。
計算している。

そう見えた瞬間、作品は冷める。

しかし、作為そのものが悪なのではない。

問題は、それが“見えてしまう”ことにある。

たとえば、ミステリー作品。

あれほど作為に満ちたジャンルはない。

伏線を張り、
視線を誘導し、
最後に回収する。

すべてが設計されている。

にもかかわらず、
優れた作品に出会ったとき、我々はこう言う。

「やられた」

これは、作為が成功した証ではない。

作為が“透明になった”瞬間である。

見えていたはずの設計が、
体験へと変わる。

逆に言えば、

中途半端な作為は、見える。

意図が透ける。
操作が見える。
設計図が顔を出す。

そのとき作品は、
芸術ではなく“仕掛け”になる。

では、普遍的な作品はどうか。

それらは、作為がないように見える。

だが実際には、そうではない。

ただ、作為が極まりすぎて、
“見えなくなっている”だけである。

芸術とは、
自然か人工かではない。

見えるか、見えないかでもない。

どこまで行ったか、である。