爪と石と、顎の下の自由

誰しも、無意味なものに心を寄せてしまう瞬間がある。

たとえば、子どものころに小瓶へこっそりためていた爪。
人から見れば、ただのゴミである。
しかし自分にとっては、あれは立派なコレクションだった。

誰にも見せるつもりはない。
理解されるとも思っていない。
それでも、なぜか捨てられなかった。

そこにはたしかに、
自分の一部を集めているような感覚があった。

身から出たもの。
それは役に立たない。
美しくもない。
だが、妙に愛着だけはある。

子どものころ、私は小さな瓶に爪をためていた。
切ったばかりの爪を、なんとなく捨てる気になれず、そっと瓶に入れる。
たまっていく様子を見ると、少しうれしかった。

いま思えば、何がうれしかったのかはよくわからない。
達成感なのか、収集欲なのか、あるいは「これは自分のものだ」という感覚なのか。
とにかくあの瓶は、子どもの私にとって、ちゃんと宝物だった。

それを親に見つけられて捨てられたとき、私はショックを受けた。
ゴミを処分されただけと言われれば、その通りである。
でも、こちらからすると、勝手に歴史を捨てられたような気分だった。

ここで、ひとつ思う。

身から出たものへの愛着というのは、
もしかすると無意味の極致なのではないか。

たとえば──
切ったあと、なんとなく触ってしまう髪の毛。
剥がれたあとも、しばらく手元に置いてしまうかさぶた。
なぜか捨てられずに残してしまう乳歯。

どれもこれも、
身体から出た瞬間に「自分であり、自分でないもの」へと変わる。

さっきまで確かに自分だったのに、
今はもう、ただの物体である。

「これ、さっきまで自分やったんやで」
「でももうゴミなんやで」
そんな声が、どこかで同時に鳴っている。

手放したいのに、ちょっと惜しい。
合理的には処分すべきなのに、なぜか迷う。

この矛盾のあいだに浮かぶ感覚。
それこそが、無意味のポエジーなのだと思う。

身から出たものには、妙な証拠能力がある。
ここに自分がいた。
たしかに育っていた。
そんなことを、言葉ではなく物質で見せてくる。

たとえば手術で取り出された胆石や腎結石を、
「もらえますよ」と言われて、少しうれしくなる人がいる。
あれも他人には理解されにくい感情だと思う。

普通に考えれば、体の不具合の原因であり、できれば二度と見たくない代物である。
それなのに、なぜか気になる。
なぜか手元に置きたくなる。

だってそれは、自分の身体が作ったものだからである。

私はそれを、少し誇らしい気持ちで眺めたくなる感覚だと思っている。
もちろん自慢するようなものではない。
しかし、これは確かに私の内側で生成されたものであり、
いわば身体による無意識の作品でもある。

他人から見れば石。
自分から見れば記録。
この落差が、なんとも言えずおもしろい。

捨てられた瞬間に怒りが湧くものも、だいたい同じ領域にある。

ボロボロの手ぬぐい。
昔の免許証。
太っていたころの写真。
使い道はない。
見た目もよくない。
それでも、勝手に処分されると腹が立つ。

なぜそれを捨てたのか。
なぜ聞かなかったのか。
あの感情は、物への執着というより、時間への介入に対する怒りに近い。

それはただの古い布ではない。
それは、たしかにそこを生きていた自分の手ざわりである。

それはただの古いカードではない。
それは、かつて別の輪郭をしていた自分の証明である。

他人にとってはガラクタでも、自分にとっては「途中経過」なのだ。
しかも、その途中経過ほど、あとから二度と作れない。

そして私は、もっと意味のない記憶をひとつ持っている。

長い髪を顎の下で結ぶ、あの遊びである。

誰に見せるわけでもない。
役に立つわけでもない。
鏡の前でやって、少し変な顔になって、それで終わる。
本当にそれだけのことなのに、なぜかあれには小さな自由があった。

誰にも見られていない時間。
誰にも評価されない仕草。
意味も成果もない、完全に自分だけの遊び。

あの感じは、思い返すと妙に大事なものに思える。
もしかするとあれは、自分だけの居場所の確認だったのかもしれない。

ちゃんとしていなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
説明がつかなくてもいい。
そういう時間の中でだけ、人は少し自分に戻れることがある。

ゴミか宝かを決めるのは、たぶん他人ではない。

意味があるかないか。
残す価値があるかないか。
そんなことを外から決められる筋合いも、ほんとうはないのだと思う。

身から出たもの。
自分が触れてきたもの。
自分だけがなぜか大事にしてしまうもの。

そういうものにこそ、案外、その人がよく出ている。

人に笑われてもいい。
理解されなくてもいい。
爪でも、石でも、ボロ手ぬぐいでも、顎の下の結び目でもいい。

それは無意味だからこそ、
まっすぐに自分へつながっているのかもしれない。

今日もどこかで、
誰かが人知れず、身から出たものを宝物みたいに見つめている。

そして私はたぶん、いまでも少しだけ、そういう気持ちがわかる。
顎の下で髪を結ぶ自由を、まだ覚えているからである。

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