電車が、揺れていた。
男性が、立ち上がる。
少し離れたおばあちゃんに、声をかける。
「どうぞ、こちら…」
その瞬間、
もう席は、埋まっていた。
若い兄ちゃん。
スマホを見たまま、気づかない。
男性は、立ったまま一瞬止まって、
「あっ、ごめんなさい…」と、おばあちゃんに。
おばあちゃんも、
「ええんです、ええんです」と笑った。
何もなかったように、電車は揺れる。
譲られたはずの席。
そこに座ったのは、やさしさじゃなかった。
起こりかけて、起こらなかったもの。
やさしさの気配だけが、
つかの間、この車両に立っていた。
座った兄ちゃんは、何も知らない。
きっと、ずっと知らない。