人はよく言う。
「私は誠実な人が好きです」
たしかに、誠実という言葉はとても感じがいい。
しかし、世の中をよく観察していると、少し不思議なことに気づく。
誠実を望むと言いながら、人は必ずしも誠実な行動をしているわけではない。
人はときどき約束を忘れるし、
都合によって態度も変わるし、
自分の利益が絡めば判断も揺れる。
それでも人は、「誠実」という言葉が好きなのである。
なぜだろう。
おそらく、人が本当に望んでいるのは、誠実そのものではない。
「自分にとって都合のいい誠実」である。
自分を傷つけない誠実。
自分を裏切らない誠実。
自分に優しい誠実。
しかしそれは、ときどき少しだけ都合のよい解釈でもある。
世の中の人は、誠実という言葉を掲げながら、ほどよく適当に生きている。
それは別に悪いことでもない。
人間というものは、だいたいそんなものである。
ただ、誠実という言葉を聞いたとき、スン民は少しだけ立ち止まる。
そしてこう思う。
「いや、ちょっと待て」
言葉と現実のあいだには、ときどき少しだけ距離がある。
だからスン民は、誠実という言葉をそのまま信じない。
疑うわけでもない。
否定するわけでもない。
ただ、その言葉の「中身」を見ようとする。
その人は、どんなときに約束を守るのか。
どんなときに態度が変わるのか。
どんな場面で、自分を優先するのか。
誠実とは、きれいな一枚の看板ではなく、その人の中にある「揺れ方」の総体である。
常にまっすぐな人間など、ほとんどいない。
むしろ、揺れながらも戻ってくる人間のほうが、少しだけ信頼に近い。
だからスン民は、誠実そうに見える言葉よりも、少しだけ不器用な行動を見る。
言葉は整えられる。
しかし、揺れ方には癖が出る。
そしてその癖こそが、その人の「本当の誠実さ」に近い気がするのだ。
最後に、スン民はこうつぶやく。
「誠実って、けっこう不格好やな」
きれいに見えるものほど、少しだけ疑ってみる。
それくらいで、ちょうどいい。