スン民エッセイ第2記録『共感の圧』
世の中には、共感というものがある。
「わかる」
「それな」
「ほんまそうやんな」
こうした言葉は、人と人との距離を縮めるために使われる。
会話をなめらかにし、場を温め、安心感を作る。
しかし、この共感というものは、ときに圧力になる。
共感は「任意」ではなくなる
本来、共感は任意である。
共感したいときにする。
共感できる部分にだけうなずく。
だが場によっては、それが半ば義務のように扱われることがある。
誰かが何かを語る。
それに対して、一定のリアクションを返すことが期待される。
うなずく。
笑う。
「わかる」と言う。
このとき、共感は自由な行為ではなく、「正しい反応」として要求される。
スン民と共感のズレ
スン民は、表と裏の距離が近い。
そのため、共感できないときに、共感したふりをすることが難しい。
「わかる」と言いながら、内側では納得していない。
その状態に違和感が出る。
だからスン民は、反応が薄くなる。
無理に合わせない。
うなずく量が少なくなる。
するとどうなるか。
「ノリが悪い」
「冷たい」
「興味なさそう」
そういう評価がつく。
共感の“量”という誤解
共感は、量で測られやすい。
リアクションが大きいほど、共感しているように見える。
しかし実際には、量と質は別である。
大きくうなずく人が、深く理解しているとは限らない。
反応が小さい人が、理解していないとも限らない。
スン民は、後者に近い。
反応は小さいが、内側では処理している。
ただ、それを外に出さないだけである。
共感の圧が生まれるとき
共感の圧は、場の一体感が強いほど生まれやすい。
・みんなで同じ方向を向いているとき
・空気が固まっているとき
・「ここは共感する場だ」と決まっているとき
このとき、共感しないという選択は、目立つ。
そしてその目立ち方が、ズレとして扱われる。
距離を守るという選択
スン民にとって必要なのは、すべてに共感しようとしないことである。
共感は大事だが、万能ではない。
無理に合わせると、内側との距離が広がる。
それはスン民にとって、消耗につながる。
だから、こう考えていい。
「共感できるところだけ、共感する」
それで十分である。
おわりに
共感は、人をつなぐ力を持っている。
だが同時に、人を縛る力にもなりうる。
スン民は、その両方を感じやすい。
だからこそ、距離を測る必要がある。
すべてにうなずかなくていい。
すべてを共有しなくていい。
静かなままでも、人はちゃんとつながれる。