ひとり鬼 第五話「ひとり」

村の灯りが、遠くに見えた。

山を下りる道の途中、
木々の切れ間から、
小さな明かりがいくつも揺れていた。

あの中に、家がある。

自分の家も。
祖父のいる家も。
母のいる家も。

そう思っただけで、
足が止まりそうになった。

「どうした」

声がした。

すぐそばで、
息をかけるみたいに囁いた。

「会いたかったんやろ」

会いたかった。

そのはずだった。

でも、何を言えばいいのかは、
少しもわからなかった。

忘れたのか、と責めるのか。
助けてほしかった、と泣くのか。
それとも、何も言わずに立っているのか。

どれも違う気がした。

「行け」

声は、やさしかった。

「お前は、その顔を見る権利がある」

その言葉に、
胸の奥が少しだけ熱くなった。

権利。

そんなものが、
自分にまだ残っているとは思わなかった。

だから、一歩、前に出た。

その瞬間——

足元の土の感触が、変わった。

やわらかい。

少し沈む。

その感覚に、
心臓の奥がひどく冷えた。

落とし穴。

その言葉が、
頭の中に、はっきり浮かんだ。

あの日、掘った土。
笑いながら、踏み固めた縁。
誰かが落ちるところを待っていた時間。

全部、戻ってきた。

「……あ」

口の中が、急に乾いた。

「どうした」

声が、また聞いた。

さっきと同じ、やさしい声だった。

でも今は、そのやさしさが、
違うものに聞こえた。

「行け」

今度は、少しだけ強く言った。

「あいつらは、お前を置いて生きとる」

「お前も、ひとつくらい返したらええ」

息が、浅くなった。

その言葉は、
あの日の声と、よく似ていた。

もう少し深くしたらいい。
これくらいなら大丈夫。
誰も気づかない。

軽い声。
冗談みたいな声。
でも、その先で、人が死んだ。

「……だめだ」

思わず、声が出た。

「何がや」

声が、低くなった。

「だめだ」

今度は、はっきり言った。

「もう、いやだ」

足が震えた。

でも、今度は寒さではなかった。

「俺がやったんだ」

誰に向かって言ったのか、
自分でもわからなかった。

「俺が、軽い気持ちで」

「大丈夫だと思って」

「笑って終わると思って」

喉が痛んだ。

胸が痛んだ。

でも、言葉は止まらなかった。

「それで、人が死んだ」

山の空気が、しんと静まった。

風も、音も、
一瞬だけ、止まった気がした。

「だから、だめだ」

「もう同じことは、できない」

その沈黙のあと、
声が、笑った。

冷たい笑いだった。

「同じこと?」

声は、ひどく静かだった。

「同じなもんか」

その静かさが、逆に恐ろしかった。

「あのときのお前は、人やった」

「今のお前は、鬼や」

「返して何が悪い」

「奪われた分、奪い返して何が悪い」

「違う」

すぐに言い返した。

「違わない」

今度の声は、怒っていた。

「お前は優しさで止まっとるんやない」

「怖いだけや」

「また自分が悪くなるのが怖いだけや」

その言葉に、
何も言えなかった。

怖かった。

それは、本当だった。

もう一度、自分の手で、
何かを壊すことが。

誰かを傷つけることが。

それを、自分が望んでしまうかもしれないことが。

何より、怖かった。

「……お願いだ」

気づいたときには、
そう言っていた。

「何や」

「俺を、処分してくれ」

声に出した瞬間、
それが、自分の本音だったとわかった。

村に戻れない。
人としても戻れない。
鬼として生きていくのも、怖い。

だったら、ここで終わらせてほしかった。

せめて、自分の手じゃない誰かに。

長い沈黙があった。

それから、声が言った。

「甘えるな」

その一言は、
山全体から落ちてきたみたいに響いた。

「そんな都合のええ終わり方、あるか」

やさしさは、消えていた。

怒りとも違う、
もっと冷たいものだけが残っていた。

「人を死なせた」

「見捨てられた」

「鬼にされた」

「だから終わらせてくれ?」

「そんなもん、許されるか」

息が詰まった。

何も言い返せなかった。

「背負え」

声が言った。

「生きることも」

「死なれへんことも」

「全部や」

その言葉のあと、
もう声は聞こえなかった。

風だけが吹いていた。

村の灯りは、まだ遠くにあった。

でも、自分の足は、
もうそちらへ向かなかった。

山の奥へ向けて、歩いた。

木々の深いほうへ。
人の気配の消えるほうへ。

振り返らなかった。

呼び止める声も、なかった。

ただ、歩いた。

どこへ行くのかもわからないまま、
ひとりで。

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