村の灯りが、遠くに見えた。
山を下りる道の途中、
木々の切れ間から、
小さな明かりがいくつも揺れていた。
あの中に、家がある。
自分の家も。
祖父のいる家も。
母のいる家も。
そう思っただけで、
足が止まりそうになった。
「どうした」
声がした。
すぐそばで、
息をかけるみたいに囁いた。
「会いたかったんやろ」
会いたかった。
そのはずだった。
でも、何を言えばいいのかは、
少しもわからなかった。
忘れたのか、と責めるのか。
助けてほしかった、と泣くのか。
それとも、何も言わずに立っているのか。
どれも違う気がした。
「行け」
声は、やさしかった。
「お前は、その顔を見る権利がある」
その言葉に、
胸の奥が少しだけ熱くなった。
権利。
そんなものが、
自分にまだ残っているとは思わなかった。
だから、一歩、前に出た。
その瞬間——
足元の土の感触が、変わった。
やわらかい。
少し沈む。
その感覚に、
心臓の奥がひどく冷えた。
落とし穴。
その言葉が、
頭の中に、はっきり浮かんだ。
あの日、掘った土。
笑いながら、踏み固めた縁。
誰かが落ちるところを待っていた時間。
全部、戻ってきた。
「……あ」
口の中が、急に乾いた。
「どうした」
声が、また聞いた。
さっきと同じ、やさしい声だった。
でも今は、そのやさしさが、
違うものに聞こえた。
「行け」
今度は、少しだけ強く言った。
「あいつらは、お前を置いて生きとる」
「お前も、ひとつくらい返したらええ」
息が、浅くなった。
その言葉は、
あの日の声と、よく似ていた。
もう少し深くしたらいい。
これくらいなら大丈夫。
誰も気づかない。
軽い声。
冗談みたいな声。
でも、その先で、人が死んだ。
「……だめだ」
思わず、声が出た。
「何がや」
声が、低くなった。
「だめだ」
今度は、はっきり言った。
「もう、いやだ」
足が震えた。
でも、今度は寒さではなかった。
「俺がやったんだ」
誰に向かって言ったのか、
自分でもわからなかった。
「俺が、軽い気持ちで」
「大丈夫だと思って」
「笑って終わると思って」
喉が痛んだ。
胸が痛んだ。
でも、言葉は止まらなかった。
「それで、人が死んだ」
山の空気が、しんと静まった。
風も、音も、
一瞬だけ、止まった気がした。
「だから、だめだ」
「もう同じことは、できない」
その沈黙のあと、
声が、笑った。
冷たい笑いだった。
「同じこと?」
声は、ひどく静かだった。
「同じなもんか」
その静かさが、逆に恐ろしかった。
「あのときのお前は、人やった」
「今のお前は、鬼や」
「返して何が悪い」
「奪われた分、奪い返して何が悪い」
「違う」
すぐに言い返した。
「違わない」
今度の声は、怒っていた。
「お前は優しさで止まっとるんやない」
「怖いだけや」
「また自分が悪くなるのが怖いだけや」
その言葉に、
何も言えなかった。
怖かった。
それは、本当だった。
もう一度、自分の手で、
何かを壊すことが。
誰かを傷つけることが。
それを、自分が望んでしまうかもしれないことが。
何より、怖かった。
「……お願いだ」
気づいたときには、
そう言っていた。
「何や」
「俺を、処分してくれ」
声に出した瞬間、
それが、自分の本音だったとわかった。
村に戻れない。
人としても戻れない。
鬼として生きていくのも、怖い。
だったら、ここで終わらせてほしかった。
せめて、自分の手じゃない誰かに。
長い沈黙があった。
それから、声が言った。
「甘えるな」
その一言は、
山全体から落ちてきたみたいに響いた。
「そんな都合のええ終わり方、あるか」
やさしさは、消えていた。
怒りとも違う、
もっと冷たいものだけが残っていた。
「人を死なせた」
「見捨てられた」
「鬼にされた」
「だから終わらせてくれ?」
「そんなもん、許されるか」
息が詰まった。
何も言い返せなかった。
「背負え」
声が言った。
「生きることも」
「死なれへんことも」
「全部や」
その言葉のあと、
もう声は聞こえなかった。
風だけが吹いていた。
村の灯りは、まだ遠くにあった。
でも、自分の足は、
もうそちらへ向かなかった。
山の奥へ向けて、歩いた。
木々の深いほうへ。
人の気配の消えるほうへ。
振り返らなかった。
呼び止める声も、なかった。
ただ、歩いた。
どこへ行くのかもわからないまま、
ひとりで。