【第5章】ポポは見ていた──ヨアナの光は、誰にも見えなかった。でも、ポポは知っていた。

第5章 触れてしまった手

それは、ほんの一瞬のことだった。

きっかけなんて、
あとから思い返しても、
はっきりとは思い出せない。

ただ、気づいたときには、
もう、その場所に立っていた。

放課後の教室。

あの日と同じように、
人はほとんどいなかった。

違っていたのは、
彼が、最初から戻るつもりで来たことだった。

理由はなかった。

忘れ物でもない。
用事でもない。

それでも、足が向いた。

自分でも、少しだけ驚いていた。

扉を開ける。

ヨアナは、いた。

いつもと同じ場所で、
いつもと同じように、
ノートを開いていた。

彼は、立ち止まらなかった。

あの日のように、
ただ見て終わることは、できなかった。

ゆっくりと、歩いていく。

足音が、やけに大きく感じられた。

ヨアナは、気づいた。

顔を上げる。

その目が、
ほんの一瞬だけ、彼をとらえた。

何も言わない。

驚いたようにも、
困ったようにも見えた。

でも、すぐに、
また視線をノートに戻した。

それが、
彼には、少しだけ救いだった。

拒絶でも、歓迎でもない。

ただ、そこに在るだけの反応。

彼は、机の横で止まった。

何か言わなければ、と思った。

でも、言葉が出てこなかった。

頭の中にあったはずのものが、
全部、どこかへ消えていた。

しばらくの沈黙。

窓の外の風の音だけが、
静かに流れていた。

彼は、視線を落とした。

ノートが、少しだけ見えた。

読もうと思ったわけではない。

でも、そこにあった言葉が、
目に入ってしまった。

「今日は、誰とも話さなかった」

その下に、
少しだけ小さな文字で、

「それでも、なんか疲れた」

と、書かれていた。

その一文を見た瞬間、
彼の中で、何かがほどけた。

「あの」

声が、出ていた。

自分でも、驚くくらい、
自然に。

ヨアナが、顔を上げる。

目が、合う。

逃げなかった。

逃げられなかった。

彼は、続けた。

「……それ、わかるわ」

言ってしまったあとで、
少しだけ後悔した。

何を言ってるんや、と思った。

こんなん、
何の意味もないやろ、と。

でも、その言葉は、
確かに、そこに落ちた。

ヨアナは、少しだけ、止まった。

ペンを持ったまま、
何も書かずに、
そのままの姿で。

それから、ほんのわずかに、
頷いた。

声はなかった。

言葉もなかった。

でも、その小さな動きだけで、
十分だった。

それ以上、何もいらなかった。

彼は、それ以上何も言わなかった。

言えなかった。

でも、もう、戻れないことだけは、
はっきりとわかっていた。

ヨアナのノートは、閉じられなかった。

ページは、そのまま、開かれていた。

その上に、
まだ言葉になっていない何かが、
確かに存在していた。

私は、見ていた。

ふたりのあいだに、
初めて、何かが渡された瞬間を。

それは、とても小さくて、
誰にも気づかれないものだった。

でも確かに、
世界が、ほんの少しだけ、変わっていた。

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