第6章 ノートの終わり
それから、
特別なことは、何も起きなかった。
ふたりは、
毎日少しだけ言葉を交わすようになった。
長い会話ではない。
「おはよう」
「それ、落ちてたで」
「今日、雨やな」
それだけだった。
それでも、
それまでとは、まったく違っていた。
ヨアナは、
前より少しだけ、顔を上げるようになった。
ほんの少しだけ、
言葉が外に出るようになった。
彼もまた、
無理に何かを変えようとはしなかった。
ただ、
そこに在ることを、やめなかった。
それだけで、
十分だった。
でも、その変化は、
誰にも気づかれなかった。
教室は、いつも通りで、
日常は、何も変わらなかった。
ヨアナは、やっぱり静かで、
やっぱり目立たなかった。
ただ、
ノートだけが、少しずつ変わっていった。
「今日は、少しだけ話した」
「名前を呼ばれた」
「ちゃんと聞いてくれた」
その言葉たちは、
どれも小さくて、
どれも確かなものだった。
ページは、
ゆっくりと埋まっていった。
そして、ある日。
ヨアナは、最後のページを開いた。
長く、何も書かなかった。
ペンを持ったまま、
しばらく、じっとしていた。
窓の外には、
また、雨が降り始めていた。
最初の日と、同じように。
ヨアナは、ようやく書いた。
「私は、ここにいた」
その一行だけだった。
その下に、少しだけ間をあけて、
「見てくれてた人が、いた」
と、書き足した。
その文字は、
少しだけ、やわらかかった。
それから、ノートを閉じた。
静かに、
ゆっくりと。
ヨアナは、立ち上がった。
振り返らなかった。
教室を出ていく。
その背中は、
今までと同じようで、
少しだけ、違って見えた。
私は、見ていた。
最初から、最後まで。
誰にも気づかれなかった日々を、
誰にも読まれなかった言葉を、
全部、見ていた。
ヨアナは、消えたわけじゃない。
ただ、
自分で、自分を置いていった。
それだけのことだった。
空は、少しだけ明るくなっていた。
雨は、止みかけていた。
私は、飛び立つ。
次の場所へ。
また、誰かのそばで、
誰にも見えないまま、
ただ、見ているために。
ポポッ。