第3章 気づいてしまった者
その変化は、
誰にも気づかれないまま、
静かに始まっていた。
いや、正確には、
ひとりだけ、気づいてしまった。
それだけのことだった。
彼は、特別な人間ではなかった。
クラスの中で、
特に目立つわけでもなく、
かといって埋もれているわけでもない。
笑えば、誰かが笑い返す。
話せば、それなりに返ってくる。
それなりに、うまくやっていた。
でも、ときどき思っていた。
「これ、ほんまの自分なんかな」
誰にも聞かれないまま、
その問いは、どこにも届かず、
そのまま流れていく。
彼は、その日も、
ただ教室の空気の中にいた。
いつもと同じように。
ただ、ひとつだけ違ったのは、
視線が、止まったことだった。
それは、ほんの一瞬だった。
ヨアナが、紙を拾って、
机の上に戻した、そのとき。
誰も見ていなかったその動きを、
彼だけが、見ていた。
なぜ見えたのか、
彼自身にもわからなかった。
ただ、
その手つきが、やけに静かで、
やけに丁寧で、
やけに――
消えてしまいそうに見えた。
彼は、そのあともしばらく、
何も言わなかった。
言葉にするには、
あまりにも小さくて、
あまりにも説明できない感覚だった。
でも、その日から、
少しだけ、何かが変わった。
ヨアナのことが、
目に入るようになった。
今までも、そこにいたはずなのに、
なぜか、見えていなかった存在が、
急に輪郭を持ちはじめる。
不思議なことだった。
話したこともない。
特別な出来事もない。
それでも、
ふとした瞬間に、視線が向いてしまう。
窓の外を見ているとき。
ノートに何かを書いているとき。
誰とも話さずに、静かに座っているとき。
そのどれもが、
なぜか引っかかる。
理由は、わからない。
わからないまま、
ただ、気になってしまう。
それが、いちばん厄介だった。
彼は、その違和感を、
できるだけ見ないようにした。
気のせいや。
たまたまや。
深い意味なんか、あるはずない。
そうやって、
何度も打ち消そうとした。
でも、あるとき、
ふと、思ってしまった。
「……なんで、あいつなんやろ」
その瞬間、
少しだけ、胸の奥がざわついた。
言葉にしてしまったことで、
何かが、確定してしまいそうで。
彼は、すぐに視線を逸らした。
ヨアナのほうを、見ないようにした。
見てしまったら、
もう戻られへん気がしたから。
でも、遅かった。
一度、見えてしまったものは、
もう、なかったことにはできない。
私は、見ていた。
彼のその一瞬を。
世界の中で、
たったひとつの光に、
気づいてしまった者の顔を。
それは、まだ名前のない感情だった。
でも、確かに、
何かが始まっていた。