その話を、最初に聞いたのは、夏だった。
学校の帰り道、
友だちが、なんでもない顔で言った。
「この山、鬼出るらしいで」
振り返った先に、
見慣れた山があった。
特別な形をしているわけでもない、
どこにでもあるような山だった。
「またそういうのか」
笑って流した。
でも、その言葉は、
どこかに残った。
鬼。
子どものころに聞いたことのある、
昔話の中の存在。
怖いもの。
強いもの。
人ではないもの。
でも、その山は、
そういう場所には見えなかった。
ただの、山だった。
数日後、
ひとりで、その山に入った。
理由は、特になかった。
気になったから。
それだけだった。
道は、途中までははっきりしていた。
でも、少し進むと、
急に細くなった。
人の気配が、薄くなった。
音が、減った。
風の音だけが、残った。
そのとき、
ふと、思い出した。
「祠があるらしいで」
誰が言っていたのかは覚えていない。
でも、その言葉も、
なぜか残っていた。
少しだけ、歩く速度を落とした。
探しているわけではないのに、
探しているような気がした。
やがて、
木々の間に、それはあった。
小さな祠だった。
古くて、
少し傾いていて、
でも、形はしっかり残っていた。
近づいた。
なぜか、足音が小さくなった。
中を、のぞいた。
暗かった。
何も見えなかった。
でも、目を離せなかった。
しばらく、そのまま立っていた。
時間の感覚が、少しずれた気がした。
風が、吹いた。
木が、揺れた。
葉の音が、重なった。
そのとき——
何かが、聞こえた気がした。
声、だった。
はっきりとは、聞き取れなかった。
でも、確かに、
音ではない何かが、あった。
背中に、冷たいものが走った。
怖い、とは少し違った。
知らないものに触れてしまった、
そんな感覚だった。
一歩、下がった。
それ以上、近づいてはいけない気がした。
でも、目は離せなかった。
「……いたんだ」
気づいたら、声に出していた。
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、そう思った。
鬼は、物語の中のものじゃなかった。
ここに、いた。
確かに、いた。
何をしたのかも、
なぜここにいるのかも、
わからなかった。
でも、ひとつだけ、わかった。
そこに、
ひとり、いたのだと。
風が、また吹いた。
祠の奥で、
何かが、ほんの少しだけ、動いた気がした。
それが何だったのか、
確かめることは、できなかった。
そのまま、山を下りた。
振り返らなかった。
振り返ったら、
見えてしまう気がした。
帰り道、
何度か、後ろを気にした。
でも、何もいなかった。
家に着いたとき、
いつも通りの景色があった。
人がいて、
音があって、
光があった。
それが、少しだけ遠く感じた。
その夜、
なかなか眠れなかった。
目を閉じると、
あの祠が浮かんだ。
暗闇の中の、
何も見えない奥。
でも、確かに何かがいた場所。
「……いたんだ」
もう一度、心の中でつぶやいた。
鬼は、いた。
今も、あの山のどこかに。