ひとり鬼 第六話「令和」

その話を、最初に聞いたのは、夏だった。

学校の帰り道、
友だちが、なんでもない顔で言った。

「この山、鬼出るらしいで」

振り返った先に、
見慣れた山があった。

特別な形をしているわけでもない、
どこにでもあるような山だった。

「またそういうのか」

笑って流した。

でも、その言葉は、
どこかに残った。

鬼。

子どものころに聞いたことのある、
昔話の中の存在。

怖いもの。
強いもの。
人ではないもの。

でも、その山は、
そういう場所には見えなかった。

ただの、山だった。

数日後、
ひとりで、その山に入った。

理由は、特になかった。

気になったから。

それだけだった。

道は、途中までははっきりしていた。

でも、少し進むと、
急に細くなった。

人の気配が、薄くなった。

音が、減った。

風の音だけが、残った。

そのとき、
ふと、思い出した。

「祠があるらしいで」

誰が言っていたのかは覚えていない。

でも、その言葉も、
なぜか残っていた。

少しだけ、歩く速度を落とした。

探しているわけではないのに、
探しているような気がした。

やがて、
木々の間に、それはあった。

小さな祠だった。

古くて、
少し傾いていて、
でも、形はしっかり残っていた。

近づいた。

なぜか、足音が小さくなった。

中を、のぞいた。

暗かった。

何も見えなかった。

でも、目を離せなかった。

しばらく、そのまま立っていた。

時間の感覚が、少しずれた気がした。

風が、吹いた。

木が、揺れた。

葉の音が、重なった。

そのとき——

何かが、聞こえた気がした。

声、だった。

はっきりとは、聞き取れなかった。

でも、確かに、
音ではない何かが、あった。

背中に、冷たいものが走った。

怖い、とは少し違った。

知らないものに触れてしまった、
そんな感覚だった。

一歩、下がった。

それ以上、近づいてはいけない気がした。

でも、目は離せなかった。

「……いたんだ」

気づいたら、声に出していた。

誰に向けた言葉でもなかった。

ただ、そう思った。

鬼は、物語の中のものじゃなかった。

ここに、いた。

確かに、いた。

何をしたのかも、
なぜここにいるのかも、
わからなかった。

でも、ひとつだけ、わかった。

そこに、
ひとり、いたのだと。

風が、また吹いた。

祠の奥で、
何かが、ほんの少しだけ、動いた気がした。

それが何だったのか、
確かめることは、できなかった。

そのまま、山を下りた。

振り返らなかった。

振り返ったら、
見えてしまう気がした。

帰り道、
何度か、後ろを気にした。

でも、何もいなかった。

家に着いたとき、
いつも通りの景色があった。

人がいて、
音があって、
光があった。

それが、少しだけ遠く感じた。

その夜、
なかなか眠れなかった。

目を閉じると、
あの祠が浮かんだ。

暗闇の中の、
何も見えない奥。

でも、確かに何かがいた場所。

「……いたんだ」

もう一度、心の中でつぶやいた。

鬼は、いた。

今も、あの山のどこかに。

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